以下に転載するものは、1998年に(株)コンピュータ・ニュース社発行の「BCN(BUSINESSコンピュータニュース)」紙面にて私が執筆、掲載したものである。

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BCN掲載「(株)ナムコ テーマパーク事業本部長 池澤守氏インタビュー」(1998年)

ハイテクは脇役でいい

次世代のテーマパークを創る(ノーカット版)


[前文]
 ナムコといえば、業界トップクラスの技術力をもつゲームメーカーとのイメージが強い。しかし、1996年7月に池袋にオープンした、都市型テー マパーク「ナムコ・ナンジャタウン」では「ハイテク」や「最新技術」は完全な脇役に徹している。「ハイテク機器そのものが娯楽として成り立つ時代はつくば 博で終わった」とナムコのテーマパークを創り出したテーマパーク事業本部長池澤守は言う。オープン後約1年半で200万人を動員したナンジャタウンの成功 の影には、ハイテクを脇役に徹底させ、誰にでも楽しめる「遊び」を創るための努力があった。

[本文]
 東京・池袋のサンシャインシティ内に96年7月にオープンした「ナムコ・ナンジャタウン」。昭和30年代をテーマに、東京の下町をイメージした 「福袋七丁目商店街」や、丑三つ時の町外れ「もののけ番外地」、当時の日本人の外国観で構成された「マカロニ広場」、「ナンダーバード」などの街並みと 23のアトラクションが、ビルの2フロアの中に凝縮されているテーマパークだ。
 オープン以来約1年半で入園者数が200万人を突破するなど、テーマパーク需要の低迷が叫ばれる中、高い人気を得ているが、そもそもナムコがテーマパーク事業に足を踏み入れるきっかけとなったのは何だったのだろう。
 現在、ナンジャタウンの責任者となっている池澤本部長はこう振り返る。
「つくば科学万博(つくば博)で遊園地ゾーン『星丸ランド』のとりまとめ役を依頼されたのが、ナムコが遊園地業界に実質的に踏み込むきっかけでした」
 現在はテレビゲーム業界大手として有名なナムコだが、もともとはデパートの屋上遊園地で木馬やゲーム機などの小型遊戯施設を製作運営していた会社であった。
 そこで培ったノウハウをアトラクションなどの大型遊戯施設運営へ結びつけたいとの意識はあった。
「当時、遊園地の大型遊戯施設メーカーといえば、ジェットコースターなどの乗り物を製作しているライドメーカーでした。彼らは乗り物をあらかじめ 決められたプログラムに沿って正確・安全に制御する技術については、最高のものを持っていました。しかし、『乗り物=常に同じ正確な動作をし続けるもの』 として制御技術を追求しつづけたライドメーカーには、搭乗者の操作に応じて、乗り物の動きが変化する機器というものは想像もつかないものだったようです。 逆にナムコのようなゲームメーカーにとっては、プレイヤーの操作で結果が変わるのがあたりまえでしたから、これをアトラクションに応用したいと、考え始め るのも当然でした」
 87年頃から、大型遊戯施設による新しい遊びを徹底的に追及するための分室を新橋に設置、本格的な取り組みを開始する。その第一弾として88年7月に世界初のインタラクティブコースター「ゾーラ」(富士急ハイランド・現在も稼働中)が完成した。
 「ゾーラは従来のジェットコースターにコンピュータと無線通信機を組み込んで、シューティングゲームができるようにしたものです」
 一見単純そうだが、コースターのGに耐えられ、確実にデータを転送するシステムを設計するのはかなりの苦労があったようだ。

 また、分室では世界初のゲーム用リアルタイム3Dチップを開発した。
「このチップをゲーム以外の何か他の用途に利用できないかと考え、ユーノスロードスターの販促用ドライブシミュレーターや教習所向けのシステム、そして90年大阪花と緑の博覧会の『ギャラクシアン3』などに応用しました」
 花と緑の博覧会(花博)では、同時にインタラクティブライド『ドルアーガの塔』も開発、博覧会の各施設の中でもトップクラスの人気を誇るアトラクションとなった。
「この時、主催者側から我々に求められたのは、『次の時代の遊園地のありかたを提案するものを創って欲しい』というものでした。ちょうど、新しい 遊びの構想として参加体験型を中心とした『ハイパーエンターテイメント構想』を研究しており、ギャラクシアン3と、ドルアーガの塔はその研究成果の一つと して創り上げました」
 このハイパーエンターテイメント構想は、92年2月二子玉川園にオープンした「ナムコ・ワンダーエッグ」で、1施設の構想からパーク全体の構想まで広がる。
「花博までの経験で、1施設の企画・運営などのノウハウは部品としては充分に培っていました。ただ、パーク全体の企画・運営となるとまた違った難しさがありました」
 全く新しいパークを成功させるために、2つの秘訣があったという。
「1つは、従来の遊園地やディズニーランドなどを参考にこそすれ、決して真似はしない。ディズニーに代表されるテーマパークにも、いわゆる普通の 遊園地にも広大な土地が基盤として存在している。そのため、過去のパークの同軸線上でパークコンセプトを考える限り、大規模な舞台や機器設置のための敷地 が必須条件になる。最終的には企画や演出よりも広さの競争が中心となってしまうのです」
 そこで、採用したのが従来のどのパークにもなかった『参加体験型』であった。
「2つめは、あえて設置場所に都市部を選択したことです」
 当時の遊園地、テーマパークといえば、都市の郊外に広大な敷地を設け、家族連れで楽しむ『郊外、ファミリー、ウィークエンド型』レジャーであった。
「本当は、小規模でも都市の中にこそパークが必要なのではないか。ファミリーよりも若い人の方が遊びたいのではないか。さらには、会社や学校帰り に遊びたいのではないか。これらを考えた結果、『都市、若者向け、デイリー型』レジャーとしてのコンセプトに行き着いたわけです」
 ただし、小規模と言ってもアトラクションが1~2台しか無いのではパークとして成り立たない。
「最低でも15以上は必要だと考えました。1ヘクタール程度の敷地に15施設となると、1施設あたりの面積を凝縮する必要がありましたが、映像技術や1人称視点の空間構成、インタラクティブ性などを取り入れることでそれを可能にしています」
 ワンダーエッグの成功で、都市型テーマパーク運営のノウハウを確立した池澤は続いて96年7月、池袋のサンシャインシティ内に「ナムコ・ナン ジャタウン」を創り上げた。都市型、デイリーのコンセプトは同じだが、今度はテーマを昭和30年代に設定、三世代型テーマパークとして、対象はファミリー に回帰している。
「池袋の立地を考えると、若者だけのためのパークにするのはもったいないという結論に達しました。また若者向けとするためには、どうしてもファッ ション性やハイテクに頼らざるを得ないですが、ファッション性もハイテクも、若者の移り気な感性ではすぐに飽きられてしまいます。そこで、遊びの汎用性に 重点を置き、どの世代の人々でも共通に楽しめるものとして、昭和30年代のノスタルジーな世界をテーマに選び、そこにイマジネーションを組み込むことにま した」
 ノスタルジーとイマジネーションは、それを感じる対象こそ文化や人種で異なるが、人間として万国共通の本質的な感覚であると池澤は言う。
 「そのコンセプトをライブエンターテイメントで実現すると日光江戸村などのパークになり、ハイパーエンターテイメントで実現すればナンジャタウンになる。また、米国民のノスタルジーをコンセプトにすればそれはディズニーランドやナッツベリーファームになるのです」
 ノスタルジーをコンセプトの主軸に置いたことで、施設に利用しているハイテク技術は外観からは、徹底的に排除した。
「ハイテク技術はインパクトは強いですが、すぐに飽きられて長続きしません。ハイテク技術を見せることで娯楽となる時代はつくば博で終わってし まったのではないでしょうか。ナンジャタウンでは、ノスタルジーをテーマとしたこともあり、自然とハイテクは裏方に徹するようになりました」
 だが、参加体験型の施設には参加者一人一人の行動を入力するための装置が必須だ。
「以前はボタンやレバーなど、『機械を操作する』ことを参加者に強要せざるを得なかったですが、現在は『のら猫ナジャヴの事件簿』で参加者がデー タキャリアとして持ち歩くナジャヴ(猫のキャラクター)の人形などに使用している非接触型通信装置や、赤外線通信装置がハード、ソフトともに充実してきた ことで、機械を意識せずに操作できるようになりました」
 いわば、技術を感じさせず、無意識にデータを交換し合うための技術の進歩が、ナンジャタウンのテーマを支える一つの柱となっている。

 ナンジャタウンのオープンで、参加体験型を主軸としたハイパーエンターテイメント構想は、かなり高い域まで達したように感じられる。しかし、池澤の遊びに対する徹底的な追及はとどまるところを知らない。
「ハイパーエンターテイメント構想も発想段階から数えて10年が経過しました。現在は次の10年の指針となる構想を練っています」